
「子どもの夢の叶え方」第13回 松谷孝征さん(株式会社手塚プロダクション代表取締役社長)
“漫画の神様”
手塚治虫の言葉が一冊の本に!
ー 小学生のときにケガをして2ヵ月ほど入院していました。それ以前から手塚作品のファンでしたが、ブラック・ジャックは、その神業的な手術の腕も、生き様も、憧れの人物でした。
『ブラック・ジャック』※1の連載は、私が手塚プロダクションに入社したのと同じ1973年にはじまったんです。この年はアニメーション専門の「株式会社虫プロダクション」と、版権・出版・営業部門となる「虫プロ商事株式会社」の2つが倒産した、そんな時期でした。手塚は集中して漫画を描く時間がなくて、とても連載を何本も描けるような状態ではありませんでした。1972年から1973年は本当に漫画を描けていなかった。しかし倒産によって借金は抱えたけれど、それでスッキリしたんだと思います。漫画を描く時間もできたことで、それまでとその後では、描いた分量が全然違いますから。『ブラック・ジャック』は、そんなときに生まれた作品でした。
※1 『ブラック・ジャック』
無免許の天才外科医ブラック・ジャックが活躍する医学ドラマ。その天才的な外科手術の技術により、あらゆる医者から見放された患者たちが最後の望みを託してやってくるが、その代価として莫大な代金を請求する。「医療と生命」をテーマとし、当初は短期間で終了する予定だったが、定期不定期合わせて10年近く続く長期連載作となり、手塚治虫の代表作のひとつとなった。

「子どもの夢の叶え方」第13回 松谷孝征さん(株式会社手塚プロダクション代表取締役社長)
ー 今回上梓された書籍『手塚治虫 壁を超える言葉』 は、松谷社長にとって初めての書籍ですよね。執筆のきっかけは?
きっかけは出版社からの依頼でした。手塚治虫が亡くなった当時も、「手塚治虫のことについて書きませんか?」という話はあちこちからありましたが、そのときは手塚が残していった仕事もたくさんあって忙しかったし、そんな気持ちには全然なれなくて、ずっとお断りしていました。こういう本は、僕が会社をリタイアした後で、当時を思い出しながらのんびり書こうかと思っていました。でもそんな依頼があって、多少物忘れも進んできましたので(笑)、今のうちに書いておいた方がいいかなと思ってまとめました。
ー 今年(2014年)は手塚先生が亡くなって25周年ですが、それは関係していますか?
どうだろう。依頼がなければ書いてなかったから。依頼されたのがちょうどその時期で、私しか知らないこと、わからないことを書いておいてもいいかなと。本当はもっとたくさん書こうと思っていたんですよ。でも発売が決まっていて、手塚治虫じゃないけど、締切に全部は間に合いませんでした。この本、あっと言う間に読めちゃうでしょ?
ー それでは、もしかしたら続編とか?
それはないですよ(笑)。山ほど書きたいことがあっても、手塚治虫にとっていいことばかりじゃないから。悪いことの方がおもしろいこともあるし。でもそれは抜いて、私が思っていることを書いておこうと。そしてみなさんの手塚治虫に対する誤解が解けたらいいなと思いました。
ー 誤解? 手塚先生はどのように誤解されているのでしょうか?
身近な人間でもそうですが、手塚治虫はものすごく嫉妬深かったんじゃないか、とか。でも手塚治虫のそれは、向上心につながる嫉妬なんです。いかに多くの人に読んでもらえるような漫画を描くか、それを常に持っていて、とにかく一生懸命だった。それが、ちょっと誤解されていたりするので、書いておかないといけないかなと。

「子どもの夢の叶え方」第13回 松谷孝征さん(株式会社手塚プロダクション代表取締役社長)
手塚治虫が漫画を通して
子どもたちに伝え続けたメッセージ
ー マネージャーをする前、松谷社長は編集者でしたが、手塚先生の担当をされていたのですか?
『漫画サンデー』(実業之日本社)という雑誌でグラビアや読み物のページを担当していたので、手塚治虫とは会ったことがある、という程度でした。しかしある時、他の雑誌に比べ10万部くらい差が出てしまい、その理由は漫画だということになった。そこでグラビアをなくして漫画を増やすことになり、手塚の担当になったんです。
ー それではその頃は特に手塚作品のファンとか、思い入れがあったわけではなかったんですか?
ないないない。手塚も『漫画サンデー』に連載はしていましたが、ほとんど読んでいませんでした。子どもの頃、小学6年生くらいまでは『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』『リボンの騎士』を読みましたが、それ以降はパタッと読まなくなった。でも僕らの年代は、だいたいそんな感じでしたね。その頃、漫画は月刊誌で、私の下の団塊の世代になると、昭和34年(1959年)に『週刊少年マガジン』や『週刊少年サンデー』が出版され、内容的にも中学、高校生でも読めるようなものになっていきました。
ー 一緒に仕事をするようになって、手塚先生の見方は変わりましたか?
手塚担当になり、100ページほどの原稿をとるのに2ヵ月半ほどはヒマだったので、『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』を読み直したり、40巻くらいの全集があったのでそれを読んで。そうしたら、子どもにこんなメッセージを伝えていたんだと、改めて知りました。『漫画サンデー』で描いていたものも単行本になった作品は読んでみて、ナンセンスタッチでストーリーものを描くなんて、これは冒険だなとか、手塚治虫って“凄いな”と、そこで改めてというか、初めて感じました。だって私は最初、『漫画サンデー』に漫画を増やそうとなったときに反対したんです。「新年の増刊号で本誌に前後編の企画が出されたとき、今さら手塚治虫じゃないでしょう」って。でも「手塚治虫がいいよ」という人がいて、その人は連載の担当もしていたから、手塚の凄さを良く知っていたんでしょうね。
ー 16年間仕事をして、一番影響を受けたのはどういうところですか?
やっぱり仕事ですよね。手塚は本当によく仕事をする。私らは仕事なんて大っ嫌いでしたが、普通はみんなそうですよね。でも手塚治虫は嬉々として仕事をするんですよ。本人にはそのつもりはないのかもしれませんが、締切に追われて目一杯の状況なのに、新しい雑誌が出ると「描きましょう!」となる。そういう意欲はものすごいですよね。「先生、もうこれだけ忙しいんだから、新しい仕事は入らないですよ」と言うと、「あなた知ってるでしょう。私は仕事量が少なくたって多くたって、締切は遅れるんですよ」と返ってくるんですよ。
ー 開き直りのような感じでしょうか?
開き直りというよりも、本当に描きたくてしょうがないんですよ。描きたいアイデアが次から次へと湧き出てくるんですね。
ー その発想の源は何でしょうか? 書籍にもテレビ、映画、舞台を観たり、情報収集は熱心にされていたと書いてありますが。
仕事中でもテレビは常についていて、もちろん集中しているときは聞こえないでしょうが、ニュースを観たり新聞を読んだりしているなかでヒントを見つけて、「あっこれ描かなきゃ!」って思うんでしょうね。
そして何より、やはり戦争体験が、とても大きな、一番の原動力だったと思います。あのような悲惨な出来事を間近で見て、自分は漫画が好きで、漫画が描ける。これは絶対に子どもたちに伝えなければいけないという使命感みたいなものがあったのかもしれません。そうでなければ、亡くなる最後の最後まで、起きあがれもしないのに必死になって起きあがろうとして「頼むから仕事をさせてくれ」と、あんなふうに仕事をすることは、私には考えられません。私ならどうしようもない病気になったら南の島にでも行って、なんてそんなことを考えますが、仕事をしたがるとは。だから仕事じゃないんですよね。手塚治虫にとっては。きっと。

「子どもの夢の叶え方」第13回 松谷孝征さん(株式会社手塚プロダクション代表取締役社長)
ー それは戦争体験を後世に残したい、よりよい社会にしたいという想いなのでしょうか?
手塚は戦争で体験したことを描いているわけではないんですよ。いつも3つのこと
① 戦争の悲惨さ
② 平和の大切さ
③ 命の尊さ
を言っていて、原点はみんな “命の尊さ” ですが、それも命は人間だけじゃなくて、動物も植物もみんな生きていて、地球だって生きているという考えで、そういう命の尊さを子どもたちに伝えていかなければならない、だから戦争は二度としてはいけない。平和の大切さを漫画を通して伝えていかなければ、という使命感だと思います。
私は手塚が亡くなったときに、ひとつ宿題が、いや、宿題はいっぱいあったんですが、その中のひとつに、ある出版社からの依頼で、手塚が書いたことや講演などで話したことを一冊の本にまとめるという仕事があって、亡くなる2年くらい前に手塚が「やります」と返事をしていたんです。もちろん忙しくてなかなかできないうちに病気になってしまい、これは約束みたいなものなのでやらなきゃならないと、私がテープ起こしをしたり、あちこちで書いたものを集めて、もう一度読み直したりして、でもそういう作業をしていたら、手塚の生き様というものがものすごく鮮明に見えてきたんです。
それは、いつでもどこでも、子どもたちがいかに大切か、命がいかに大切か、そういうことを必死になって書いたり、伝えたりしているんですね。子どものときの育て方、育ち方。手塚は子どもの頃は虫が大好きで昆虫採集で虫をたくさん殺してきたんだけど、でもそれも『ガラスの地球を救え』※2 の中には、そういう体験があったからこそ、命を大切にしようという心が生まれたと語っていて、だからそういうことを全然しない子どもたちというのは、ある意味かわいそうだと。
※2 『ガラスの地球を救え 21世紀の君たちへ』
地球環境問題などを取り上げた手塚治虫の随筆集。執筆途中の1989年2月9日に死去したために未完に終わったが、講演会などでのコメントを追記し、同年4月に光文社から出版された。
ー 『ガラスの地球を救え』は25年前に書かれたものですが、情報化社会や環境問題をはじめ、科学やバイオ技術の進歩、ロボット、そして原発など、今の状況を予知したかような内容です。今、手塚先生が生きていらしたら、今の世の中をどう見て、どんな作品を描いていたでしょうか?
架空のSFものであっても、現状と近似しているというのはよくありますね。今の世をどう思い、何を描いたかは本人にしかわかりませんが、きっと、自分の主張を含めた作品を描いていたでしょう。それを子どもたちにどのように伝えようとするかは見てみたかったですね。いずれにしても、作品を読んでほしいと思っているでしょうね。
たとえば『荒野の七ひき』※3 という短編漫画があって、2人の地球人と5人の宇宙人が砂漠に投げ出されます。無情に照りつける太陽が7人の体力を徐々に奪っていき、飢えと渇きがピークに達したとき、宇宙人は自分の身をみんなに分け与える。主人公の地球人が、なんであなたは自分の身を削ってまでそんなことをするんだと言うと、「なぜ地球人にはこういう気持ちがないのか不思議だ」と、確かそんな宇宙人のセリフがある。短編にもいい作品がたくさんあるんです。ぜひ読んでもらいたいですね。
※3 『荒野の七ひき』
砂漠で宇宙人を殺し回っていた汎地球防衛警察同盟員は、車が爆発し移動手段がなくなったため、5人の宇宙人捕虜を連れて歩いて帰還する。水も食料もない砂漠で飢えと渇きがピークに達したとき、宇宙人たちは自らを犠牲にしてみんなを助けはじめ‥‥。

「子どもの夢の叶え方」第13回 松谷孝征さん(株式会社手塚プロダクション代表取締役社長)
手塚治虫の子育て
親御さんへのメッセージ
ー 手塚先生は会社が倒産しても借金があっても、漫画でまだまだ盛り返せると考えていました。それだけの才能と努力もありましたが、手塚先生に挫折や失敗というのはあったのでしょうか?
最後の体を壊したときくらいですよね。1989年のお正月にテレビ番組に出る予定だったんです。今年(1988年当時)は病気ばっかりでいいことがなかったから、来年はいい年にしたいと。それを宣言するために、ぜひ出演したいと言っていたんですが、結局、体調がどうしようもなくて出られませんでした。
挫折はほとんどないというか、すべてバネになっていたかな。だって私がマネージャーをはじめた頃でも、新人のように100ページくらいの漫画を描いて出版社に持ち込んで、そういう意欲が常にあった。『ブラック・ジャック』の連載も最初は4〜5回の予定でした。だから最初は復讐のためにお金をとっているという設定でしたが、連載として続くうちに、そんな設定はなくなってしまった。
『ブラック・ジャック』は毎週20ページ、全部読み切り。こんなことを毎週続けられる漫画家はなかなかいないですよ。それを200話以上描きました。できあがりに納得できなくて、まるまる書き換えてしまったときもあるんですよ。
ー 手塚先生が子育てで大切にしていたことは?
家族はとても大切にしていましたね。家で仕事をすることもありましたし。家にはお父さん、お母さんもいらっしゃって、お子さんが3人いて、奥さんは大変だったでしょうね。滅多に家に帰れないし。家に帰ってどう過ごされていたかはわかりませんが、家族をとても大切にしていたと思います。11月3日は手塚の誕生日なのですが、その日は家族で食事をするんです。「どこかお肉の美味しいところはありませんか?」と言われて、お店を探したこともありましたね。
ー 漫画の中で子どもたちへのメッセージは描かれていますが、育てている親御さんにはどんなメッセージを残していますか?
学校の先生やPTAの方に話をする際には、「絵を描きなさい」とよく言っていました。上手下手ではなくて、似顔絵を描くと子どもたちはすぐに興味を持ちます。だから学校の先生も教科書を教えているだけじゃなくて、ちょっと絵を描いてみると、子どもたちは先生の方に集中してくれる。だから下手でもいいから絵を描くと、興味を持ってくれるので、伝えたいことがより伝わるんじゃないですか、と言っていました。だから手塚は漫画ほど、子どもたちに何かを伝えるのに素晴らしい表現媒体はないと思っていたんじゃないですかね。アニメーションはもっとです。『鉄腕アトム』で、動かないアニメシリーズを最初につくりましたけどね。

「子どもの夢の叶え方」第13回 松谷孝征さん(株式会社手塚プロダクション代表取締役社長)
ー アニメももちろんいいですが、やっぱり紙の漫画もいいですね。何度も何度も読み返しました。でもiPhoneやiPadにも「手塚治虫マガジン SHOP」のアプリを入れて、楽しませてもらっています。
手塚がiPhoneやiPadのような機器を使うかはわかりませんが、機能を知っていれば、iPhoneやiPad用の漫画を描いたと思いますね。40年くらい前に漫画を文庫本化することが流行ったんですが、「絶対ダメです」と言っていました。「この大きさの週刊誌用に描いているんです」と。だから手塚治虫全集をつくるときも、新書サイズではなく、もう少し大きいB6サイズくらいになりませんかと、そのサイズでつくっています。当時は紙質も印刷技術も良くなくて、小さくすると緻密な線は潰れちゃうんです。今は紙も印刷技術もよくなりましたから大丈夫ですが、年寄りには読みづらいから、できれば週刊誌の大きさで読みたいけどね。
アプリでは拡大できるけど読むのは面倒だし、本来漫画は見開きで、右ページの一番上のコマから左ページの最後のコマまで、展開を考えたうえでコマ割りをして描いています。だから一コマずつ、場合により拡大しながら読む媒体なら、それに合わせたものを手塚は描いたでしょうね。
手塚治虫の精神を引き継ぎ
手塚の心を世界に広め続ける
ー 松谷社長が子どもたちにおすすめする手塚漫画は何ですか?
『火の鳥』もいいけれど、小学生だと『火の鳥』はちょっと難しいかな。未来と過去3,000年くらいから交互に描き、だんだん現代に近づいていく。あの描き方も当時は斬新で、とんでもない発想ですよね。
『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』『ブラック・ジャック』、それはそれでもちろんいいんだけど、短編シリーズ、ライオンブックスやタイガーブックスシリーズの中には本当に秀作があります。いろいろ読んでもらって、いいなと思う作品を見つけてもらえればと思います。

「子どもの夢の叶え方」第13回 松谷孝征さん(株式会社手塚プロダクション代表取締役社長)
ー 今後の手塚プロダクションの活動は?
社員にもよく言いますが、金儲けはするなと。そんな社長いるかと社員にもよく言われますが、手塚治虫はお金にまったく執着しませんでした。手塚治虫の精神を引き継ぎ、手塚の心を世界に広めようとするなら、もちろんお金は必要ですが、お金を儲けることが目的になってしまうと間違えた道に行ってしまう。「手塚治虫マガジン SHOP」のアプリをOKしたのも、これをきっかけに紙の漫画も読んでもらえればと思ったからです。手塚プロダクションは、これからも手塚の心を世界に広めていきたいと思っています。
「手塚治虫ワールド」というテーマパークをずいぶん前に考えてやろうとしましたが、行政と折り合いが付かず、途中で辞めてしまいました。しかし機会があれば、子どもたちが親子で楽しめるものをつくりたいと思っています。親子が一緒に遊ぶということは、とてもいいことだと思います。
私は今、あまり現場を見ていないからよくわからないところもありますが、私らの子どもの頃の学校の先生は、なんだか一生懸命、一緒にやってくれました。先生が足りないとどこかの親が出て来て手伝ってくれたり、戦争があったからかもしれないけれど、みんなで子どもたちのことを大切に考えていたと思います。こんなことを言ってはおかしいかもしれないけれど、戦争があったから日本人は学んだところもあるだろうし、でもそれが戦後70年近く経って、忘れはじめているところもある。だからもう一度、思い返さないといけないんじゃないかなという気がします。
ー 松谷社長の目標は?
ボランティアの人たちがたくさん活躍しているけれど、私も社会貢献と言うか、子どもたちの精神的な成長において役立つことができたらいいなと思っています。手塚プロダクションもそうありたいですし、そういう気持ちは、常に持っていなければいけないと思っています。

「子どもの夢の叶え方」第13回 松谷孝征さん(株式会社手塚プロダクション代表取締役社長)
手塚治虫 壁を超える言葉
松谷孝征(著)/かんき出版/1,400円+税
「漫画の神様」と呼ばれた巨匠、手塚治虫。生涯で15万枚もの原稿を描き上げ、アニメーション制作に奔走した。その地位や才能に甘んじることなく常に努力を続け、亡くなる直前までペンを握り続けた手塚治虫の言葉を、手塚が亡くなるまでの16年間マネージャー役を務めた、現在、株式会社手塚プロダクション代表取締役社長の松谷孝征氏が紹介。人生を前向きに送るためのヒントが満載。手塚治虫が遺した言葉と、その背後にある人生哲学とは。
インタビュー後記
『鉄腕アトム』は小学生のとき、仲のよかった友だちの家のお兄さんが持っていて、遊びに行っては読みふけっていました。ケガをしたこともあって『ブラック・ジャック』を心待ちにし、『三つ目が通る』『どろろ』『七色インコ』『ドン・ドラキュラ』、少し大きくなってからは『火の鳥』『アドルフに告ぐ』『ブッダ』『陽だまりの樹』などなど、たくさんの手塚作品とともに育ちました。手塚先生の伝えたかったことを、幼い私はそれほど汲み取ることができなかったと思いますが、ブラック・ジャックが真剣に命と向き合い救っていく姿、時に理不尽にも奪われてしまい己の無力さに打ちひしがれる姿は、私の脳裏に深く刻み込まれています。
とても残念なことに、手塚先生はすでにお亡くなりになってしまい、今はもう直接その言葉を聞くことはできません。16年に渡り一緒に仕事をされてきた松谷社長が手塚先生に関する本を書かれたことで、手塚先生の言葉を、どうしても伝えたいと思いました。そして松谷社長のお話をお伺いし、手塚先生は今なお漫画を通して、普遍的なメッセージを伝え続けていると感じました。
子どもたちをどんな大人に育てたいか、子どもたちに残したい未来はどんな未来なのか、手塚作品には、その多くのヒントが描かれています。そしてそのメッセージは、大人の方に、より切実に伝わると思います。今の子どもたちは、昔ほど漫画を読まなくなっているのではないでしょうか。他にいろいろな楽しみがあり、また子どももけっこう忙しい。しかし、ぜひ親子で手塚作品を楽しんでみてください。得るものが、感じることがたくさんあると思います。
松谷孝征(まつたに たかゆき)
株式会社手塚プロダクション代表取締役社長。「漫画サンデー」(実業之日本社)で手塚治虫の担当編集者になったことが縁で、1973年、手塚プロダクションに入社し、手塚治虫のマネージャーになる。手塚作品のアニメのプロデュースを手がけながら、1989年、手塚治虫が亡くなるまでの16年間マネージャー役を務めた。1985年4月に同社社長に就任。手塚作品の著作権管理とアニメーション制作を行ないつつ、手塚治虫の遺志を継ぎ、アニメや漫画を世界に普及させるための活動を続けている。
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