
東京藝術大学の現役講師陣が贈るさまざまな講義を体験できる展示がみどころの展覧会「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」が、2026年7月24日(金)〜9月23日(水・祝)に東京藝術大学大学美術館で開催! 才能溢れる若者が集い、数々の著名アーティストを輩出してきた藝大。そこでは、一体どのような美術教育が行われているのでしょうか。2026年から2028年にかけて3年にわたり開催されるプロジェクトの第1回目となる同展。今回は総合監修を務められた、東京藝術大学大学美術館教授の古田亮先生にインタビューしました。展覧会に込めた思いをはじめ、アート鑑賞が人生にもたらす影響や、子どもと一緒に展示を楽しむコツなど、普段あまり美術館に足を運ばない人にこそ知ってほしい、美術鑑賞をもっと楽しむヒントをたっぷりとお伺いました!(インタビュー:2026年6月4日(木) / TEXT:星野薫/PHOTO:大久保景)
藝大のユニークな先生方の
授業をのぞき見!
藝大ならではの展覧会ができるまで
ー 展覧会「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」は、子どもから大人まで楽しめる藝大の体験型展覧会ですね。3年連続のシリーズ企画としてスタートするとのことですが、まずは展覧会開催のきっかけや、古田先生がそこに込めた思いを聞かせてください。
このような展覧会は初めての試みなので、最初からすべてが決まっていたわけではありません。今も大学内のさまざまなラボや、共催の新聞社さんと話し合いを重ねながら「どこへ向かおうか」と一緒になって考えている最中で、私ひとりで決めているわけではないんです。
じゃあ、進むべき方向性をどこに置くかとなったときに、ひとつは「大学美術館」という、藝大の美術館ならではの特徴を出そうと考えました。他の美術館にはない最大の特徴は、やはりここが “藝大という特殊な大学の中にある美術館” であり、“美術大学のために集められたコレクションを持っている場所” だということです。
さらに、これは美術館の中だけの話にとどまりません。大学全体を見渡せば、さまざまな専門分野を持つユニークな先生方がたくさんいらっしゃいます。普段、教員同士は大学美術館の会議で顔をあわせるくらいなのですが、この機会に「藝大の先生たちがどんなことを教えているのか」という、外からの興味に応える場にしたいと考えました。実は、これまで美術館としては、そういう場をつくってこなかったんです。
先生方は、いわゆる美術館の学芸員ではなく、それぞれの領域をいろいろなアプローチでブラッシュアップしながら授業をされています。今回は、そうした先生方とともに “美術館という空間の中で何ができるのか” を改めて問い直し、話し合いを重ねながらつくっています。

ー シリーズの初回となる今回は、どのような特色を持たせているのでしょうか?
せっかくのシリーズ企画なので「3回をうまくつなげられたらいいね」ということはずっと話していました。ただ、結論としては「1回目はこうで、2回目はこうで、3回目はこうなる」というところまでガチガチに詰めることはやめました。
ただし、根底にある基本テーマは3年間ずっと共通しています。それは「藝大が誇るコレクションをいかに活用して、先生たちが何を伝えられるか」ということです。その軸を中心に据えながら、毎回、先生たちからあがってくる提案やテーマを選び、その都度、新しい展覧会にしていくことを考えています。
古田先生の講義
『茶の本』からひも解く
日本人が忘れている “日本の美”
ー 古田先生が担当される展示のひとつ、4限目:日本美術史特講 II「岡倉天心『茶の本』を読む」について、注目のポイントを教えてください。
この展示でとりあげる岡倉天心という人物の名前を知っている方はいるかもしれませんが、「具体的に何をしたのか」「どんな思想を持っていたのか」まで詳しく知る人は少ないかもしれません。
今回は、彼の有名な著書である『茶の本』をフックに、天心の人となりや、彼が本の中で本当に伝えたかったことを素朴にひも解いてみようと考えています。それを通して私が伝えたいのは “藝大の原点を知る” ということです。
藝大の前身である「東京美術学校」は、明治22年に開設された国をあげた美術学校です。この、“国がどうしてもやらなければならない” とはじめた美術教育とは一体何だったのか。それから140年近くが経ち、時代はさまざまに変化しましたが、今改めて「原点」に立ち返ることは非常に重要です。天心という人は、この学校を創る際、基本となるエッセンスを考え出し、実践に移した張本人ですからね。
その中身は複雑で奥深いものです。当時はすでに「美術」という言葉は使われていましたが、「美術とは何か」と、はっきりわかっていた時代ではないんです。そんな時代の中、天心たちは伝統的な技術や工芸、彫刻、絵画などの、この国が縄文時代から育んできたともいえる感性や美意識を受け継いでいこうと問いかけたんですよね。
本のタイトルは『茶の本』ですが、決してお茶の作法を解説する本ではありません。「なぜ日本人はお茶を飲むのか?」という問いからはじまる本です。お茶を一杯飲むという時間の中で、お茶席の花や茶掛けという素朴な設えが洗練されていくわけです。
日本人は人をもてなすときに「これでもか、これでもか」とゴテゴテと飾ることはしてこなかった。非常に研ぎ澄まされた、たった一輪の花に、高い集中力を持って美意識を共有する。お茶の席は、そんなことを教えてくれています。
茶室という象徴的な空間をベースにしていますが、もともとは「日本人が美に対してどんな感覚を持っているか」を海外の人に伝えるために書かれた本です。今となっては、むしろ現代の日本人が忘れてしまっている部分が多いのではないでしょうか。
今回は、本の内容を細かく説明するというよりは、今にも通じるようなことや、今の学生さんや若い人たちの気づきになるようなヒントを、この本から引き出せたらと思っています。
ー 私たちが「日本の美」とはどういうことかを感覚的にわかっていても、「なぜ良いのか」言語化できない部分を、この講義が教えてくれるということでしょうか。
そうですね。『茶の本』が刊行されてから120年ほど経ちますが、実はついこの前にロンドンの「大英博物館」へ行ったとき、ミュージアムショップにこの本が並んでいるのを見つけたんです。現役のペーパーバックで、私も思わず買ってしまいました(笑)。
外国の人は半ばシェイクスピアを読むような感覚でページをめくるんだと思うのですが、日本に来たことがない人や、日本美術を深く知らない人でさえ、読むと「確かに日本人ってそういう一面があるよね」とピンとくるものがあるのでしょう。
それを踏まえて実際に大学美術館の日本ギャラリーを見てみると、そこには絵画もあれば水墨画もあるというふうに、多彩なジャンルの絵画や工芸が並んでいます。「日本美術」と一言で言っても、実はひとつのタイトルに集約できるようなものではありません。ただ、その多様な作品群の根底に流れる共通点を探るための大きなヒントをくれるのが、この本だと思っています。

ー 日本美術の根底にある抽象的なエッセンスを、実際の展覧会を通して若い世代にどのようにつなげていくのか、非常に興味深いです。
座学であれば「本にこう書いてあります」と解説すれば授業にはなるのですが、展覧会の場合はそうはいきません。今回は視覚的なアプローチとして、天心の彫刻像を展示したり、『茶の本』にインスピレーションを得てつくられた茶碗などが並びます。
そのようにして、美意識が「どう受け継がれてきたか」の過程を、実際に作品を観てもらうことで体感してもらう。また、コレクションを活用して「老子思想」とのつながりをひも解くといった試みもします。自ずと関連しあう名作もあれば、工芸科の教授・三上亮先生が、天心の美意識をアートとして再解釈した最新作も展示されます。
本を読んで頭で親しむだけではなく、実物を観て「この作品はどうやって生まれたんだろう」と自分に問いかける。観てくれた方それぞれが自分自身の新しい「見方」を見つけてもらえたらと思います。

自分なりの「見方」はどう見つける?
作品と向きあった時間は “一生もの”
ー 自分なりの「見方」を見つけるというのは、奥深く、難しくもあります。先生は “自分の見方を知る” ということは、どういうことだと思われますか。
大学の美術史の授業でも言っていることなのですが、作品を美術史的に観るのは、学問としてはとても大事な見方です。「どんな技法が使われていて、背景にはどういう人が描かれているのか」「それ以前の日本画の手法とどう違うのか」といった、専門的な視点です。
でも、そういう知識を最初に「覚えなさい」と押し付けるのではなく、まずは「作品から何が読み取れるだろう?」と、自分の目だけを信じて作品に向きあう。その向きあった時間は、その人の “一生もの” になります。
「これは何だろう?」と考えながら作品と対峙する時間はその人だけのものです。それが記憶になり、そのときにはわからなかったことが、何年か経ってから再び観たときに「そういうことか」とわかったりするんですよね。
人に教えられたことはすぐに忘れてしまうかもしれませんが、自分が一生懸命何かを見出そうとして向き合った時間は、一生残り続けるんじゃないかなと思います。
ー 多くの人が鑑賞中に何を感じるべきか迷う中で、大切なのは正しい答えを出すことではなく、作品と向き合っている時間そのものに価値があるということなんですね。
そうそう。極端な話「何しに来たんだっけ?」というのも大事なんです(笑)。目の前には絵画であれ彫刻であれ、かつて誰かがつくった作品があるわけですよね。それを私たちは「芸術」と呼んでいるんだけど、そんな言葉で定義する必要はなくて、作者が時間を費やして何かのためにそれをつくったり描いたりした結果、何かが生まれた。その事実自体は、誰が見ても伝わるはずなんです。
「この作者は、こういうことを表現したかったから、これだけの時間をかけてつくったんだろうな」という気配を感じとれれば、十分なんです。あとは、それを観ようとするか、しないか。
もしかしたら作者は全然違うつもりでつくっていたかもしれないけれど、実は美術作品ってそれでいいんですよ。なぜなら、作品は作者の手を離れた瞬間に、もう作者のものだけではなくなるからです。そこからはもう言い逃れができない(笑)。
むしろ、観る側の多様な見方こそが、その作品を形づくっていくんです。そうやって鑑賞者の眼差しに晒されて鍛えられて、100年経ったときに「やっぱりこの作品はすごいよね」と言われたり、まったく新しい解釈が現れたりする。
そうした多様な見方に耐えられる包容力を持っている作品こそが、本当に強い作品なんです。作者としても「自分の想いが正確に伝わってほしい」とは必ずしも望んでいるわけではないと思いますよ。

スマホですぐに作品を見られる今
美術館で本物を観る意味
自分は今、何を観ているのか?
ー 今はSNSをはじめ、画面越しにたくさんの作品に触れられる時代ですが、画面上で作品を観るのと、実際に美術館やギャラリーへ足を運んで本物の作品を観るのとでは、どのような違いがあると思われますか?
「つくった人の気持ちになれるかどうか」です。実際の作品には、画面からではわからない大きさや質感、場合によっては手触りなども感じられます。私たちは、その唯一無二の存在感を観に行くわけです。
しかしそれがデジタル画像になってしまうと、そうした要素がすべて飛んでしまいます。画像なら「これは女性の絵である」ということはわかっても「なぜこのサイズを選んだんだろう?」「なぜこの筆使いなんだろう?」という、作者の試行錯誤までは観ようとしないし、観えません。
自分は今、何を観ているのか? その実感に少しだけ意識を向けてみる。「画像を『確認』しに来てるわけじゃない」というところから、アート鑑賞がはじまると思うんですよね。
作品のどこを観るかは子どもの “個性”
子どもの視点から新しい世界に気づく
ー 今回の展覧会は子どもと一緒に来館される方も多いと思います。子どもから「これなぁに?」と聞かれたとき、子どもの自由な発想を尊重し、アートを楽しむ心を育むには、どのように返すと良いでしょうか?
それはまさに「何のために作品を観ているのか」という問いですよね。今回、会場内に写生やスケッチを自由に楽しんでもらえるスペースをつくるんです。そういう場所で親御さんは、つい「形が違うじゃない、よく観なさい」と言っちゃいそうじゃないですか。
でもね、結局は子どもの方が大人よりもずっとよく観ているかもしれないわけです。作品のどこを観ているのかということ自体が、その子の個性そのものなので、そこには基本的には他人は入り込めないんです。
だからこそ「この子はどのように観ているんだろう?」と、その子の視線に寄り添えるかどうかが大切になります。そして、そこは対話のチャンスですよね。
もちろん、親の側から「ここを観てごらん」「ここに気づいた?」と、新しい視点を提案することはあっていいように思います。でもそれ以上に重要なのは、子どもが何を捉えようとしているのかを、大人の側が気づくこと。子どもたちを観察することで、実は大人の側こそが、新しい世界に気づかされているんですよね。

教えれられるのではなく
自分から積極的に何かを観る
ワークショップで
子どもの「見方」を引き出す
ー 同展は子どもたちだけを対象にしたものではないと思いますが、子どもたちでも楽しめる、おすすめの展示があれば教えてください。
「7限目:動物の目で作品を見てみよう(特別鑑賞演習『藝大美術館に住む動物たち』)」ですね。これはデザイン科の准教授・丸山素直先生が担当されているのですが、子ども向けのワークショップを、美術館の展示空間そのものに組み込もうと企画したものです。また、丸山先生は学外のイベントなどでも経験を積まれてきているので、そのノウハウを活かしています。
たとえば、展示室に巨大な動物の彫刻や、動物を描いた小倉遊亀の日本画があったとしますよね。その作品を前にして「動物の気持ちになってみよう」と子どもたちに問いかけてみる。そして、みんなが感じたことをその場でカードに書いて壁に貼ってみたり、共有したりする試みを予定しています。

アートの見方や楽しみ方って、ともすると大人から「これはこういうふうに観なさい」と教えられて、「あ、そうなんだ」と納得してしまいがちですよね。でも、そうすると、正しい見方を教えてもらうまで待つ姿勢になってしまい、自分から積極的に何かを観ようとしなくなってしまう。
今回のワークショップでは、動物という親しみやすい入口を通して、そこから一歩踏み出すきっかけを掴めるでしょう。「自分はこう思う」という、自分の感性に気付く。誰かに正解を教えてもらうのとはまったく違う、自分だけの「見方」をぜひ体験してほしいなと思います。

知識を深める勉強も大事
物をつくる行為も同じくらい大切
そんなバランスを藝大で教えられたら
ー 展覧会をきっかけに、本格的に芸術の道を志したい子どもたちが現れるかもしれません。先生からアドバイスをいただけますか?
私が40年前に藝大に入学したとき、先輩から「ここでは何も教えてくれないからね」と、非常にありがたい言葉をいただきました。やっぱりね、アートの世界において「誰かに教えてもらおう」と思っているようでは、おそらくダメなんですよ。
ー なるほど。では、藝大のあり方について少し視野を広げて伺いたいのですが、近年は海外の美術大学へ進学する人も増えています。そうした時代の中で、これからの藝大の未来について、どのようにお考えでしょうか。
昔は「ニューヨークに行けば仕事がある」とか「海外の都市へ行けばアーティストとして認められる」という夢が見られた時代もあったけれど、今はそうした幻想はなくなりました。しかし、世界中にユニークな特徴を持ったアートスクールがありますし、総合大学のなかにも学ぶところがかなり増えてきてるんですよね。
最初から海外に行く人もいれば、日本の大学を出た次のステップとして海外に向かう人もいる。多様なパターンがあっていいと思いますが、私は原則として「世界を知るべきだ」と考えています。さまざまな文化や価値観に触れることは、すべてその人の糧になり、あらゆる意味での力になりますから。
同時に、これは藝大に限った話ではないのですが、「原点に立ち返ること」が重要になってきます。じゃあ藝大にとっての原点は何か、といえば、やはり「東京美術学校がやろうとしたこと」。その歴史に行き着くわけです。
そこで一体何が行われたかというと「ものづくり」なんですよ。アーティストは、まずは1枚の絵やひとつの工芸といった、ものづくりの成果によって自らの思想を示さなくてはならない。
「これを学べば大丈夫」という正解はありません。今の時代だからこそ、世界中の多様な選択肢の中から、自分だけの感覚を身につけていけばいいと思います。
その出会いは偶然でいいんです。たまたま知ったことというのはその人そのものなので。そういうたくさんの偶然でいろいろなことを身につけていってほしいですね。
ずっと座学で勉強している人も、「あ、そろそろ何かつくらなきゃ」と手が動き出すタイミングがあるはずです。最初から表現が湧き出ていてどんどんつくれちゃう人もいると思います。パターンとしてはいろいろあると思いますが、知識を深める勉強も大事だし、物をつくるという行為も同じくらい大切。そんなバランスを、藝大という場所で教えられるといいなと思います。

見方は色々あっていい!
「観せる側」になって気づいたこと
ー 先生ご自身についても伺いたいのですが、研究者・学芸員として作品と向き合う現在と学生時代を比較して、美術に対する見方はどのように変わりましたか?
振り返ると、学生だった頃はまだ学ぶ身でしたから、作品は「勉強の対象」であり、「日本美術史」という領域の中での見方を勉強していました。それはそれでひとつの見方ですよね。博物館に行けば展示対象があり、自分との対応関係は明確でした。
だけど、その後「東京国立博物館」で勤務し、「並べる側」「観せる側」の立場になると、それは一変しましたね。「そこに物がある」という現実からはじめるわけです。来館者に観てもらうときに「どうすればこの作品が一番よく観えるか」ということを考えるようになりました。
じゃあ「よく観える」とはどういうことかというと、隣の物との関係なんです。「何と何を一緒に並べると、どういう効果が現れるか」を常に考えますし、一点だけを展示したときと、10点の中の1点として展示したときとでは、作品の印象は変わります。
つまり、私が観せているのは解説文ではなくて空間そのものなんです。作品がどういった印象を持って立ち現れてくるかを考えはじめるようになったことこそ、学生時代とは決定的な違いですね。
ー 鑑賞者に「こういう体験を持ち帰ってほしい」とあらかじめ用意するのではなく、「これとこれを隣り合わると空間に何が起きるか」という仕掛けに注力されているんですね。
仕掛け人としてはもちろんそういうつもりでつくっているんですが、これが思う通りにいかなくて、全然違うふうに捉えられることも多々あるんです。展覧会の会場に立っていると、観客の方が背中越しに、私の想定とはまったく違う方向で会話を弾ませていたりします。
それは学芸員としては敗北ではあるんだけど、同時に「じゃあ今度はこうしよう」と、原動力にもなる。そうやって多様なものの見方を許容できるようになると、こちら側の引き出し方や観せ方のバリエーションも増えていくんです。

自分だけの見方、専門家の見方を知り
いろいろな見方があっていいと気づいて
ー では最後に、来場者の方へメッセージをお願いします。
「見方」とは、少し曖昧な言葉ですよね。一体どういう見方なんだろうかと興味を持って会場へ来ていただいたときに「こんなにいろいろな見方があっていいんだ」ということに気づいてほしいです。
特に、お子さんたちが初めて作品を目にするときの、あの本当に新鮮な見方を大切にしてほしいなと思います。まさに「自分だけの見方を知る」ということですね。同時に、今回は大学の授業に見立てた構成でもあるので、「専門家はこういうふうに作品を観ているんだ」ということを知ってもらえるでしょう。
ただ、これは必ずしも子どもたちのためだけの展覧会ではありません。私自身が「あ、そうだったんだ!」と驚くような展覧会になっています。それだけ、来てくれた人が自分だけのおもしろさをいろいろな場所で見つけてくれるはずだと思っています。そこがちゃんと届けられればいいかなと思います。
「藝大式 美術の“ミカタ”―この夏、藝大生になる―」は、2026年7月24日(金)〜9月23日(水・祝)に東京藝術大学大学美術館で開催!

古田亮(ふるた りょう)
1964年生まれ。東京国立博物館研究員、東京国立近代美術館主任研究員などを経て、2021年から東京藝術大学大学美術館教授を務める。専門は近代日本美術史。多くの美術展を企画し、高い評価を得ている。2010年に著書『俵屋宗達 琳派の祖の真実』(平凡社新書)でサントリー学芸賞を受賞。2018年に『日本画とは何だったのか』(KADOKAWA)、2025年に『列島の日本美術史 知られざる美の交錯』を上梓。
インタビュー後記 〜作品の “わからなさ” に浸る時間は美術鑑賞の醍醐味〜
考えてみれば、美術の「見方」を誰かに教わる機会はほとんどありません。私自身、展覧会へ足を運ぶことが好きで、作品の “わからなさ” に浸る時間は美術鑑賞の醍醐味だと思っています。自分の発想では絶対に生まれてこない表現を目の当たりにすると、わからないことがまだまだたくさんあるということを突きつけられて、そんな世界の豊かさに心が動かされます。一方で、「他の人はどんなふうに観ているのだろう」「もっと正しくわかる必要があるのでは」と、不安になる瞬間もありました。
しかし、今回のインタビューを通して、古田先生の「見方は人それぞれでいい」という言葉に、背中を押されました。また、インタビューという機会だからこそ聞けた素朴な疑問にも、先生は一つひとつ丁寧に言葉を尽くして答えてくださった姿が印象に残っています。
美術館へ足を運ぶことに少しでもハードルを感じている人にこそ、この展覧会をきっかけに、「自分なりの見方」で作品と向き合う楽しさを味わってほしいと思います。
